飛行中のカンタス航空機
会社沿革

クイーンズランド州の奥地ウィントンとロングリーチでの創業時から、世界的な航空会社としての地位を確立した現在に至るまでのカンタス航空の歴史をご紹介します。クイーンズランド・ノーザンテリトリー航空サービス株式会社 (QANTAS) 設立の裏には、強い意志を持って困難を乗り越えてきた人々がいました。

1918~1938年

1920年11月、第一次世界大戦の退役軍人ポール・マクギネスとハドソン・フィッシュは、オーストラリアと世界を結ぶ航空輸送事業を構想しました。彼らはフォード・モデルTに乗ってオーストラリア北部を走る陸上調査を終えたばかりでした。クイーンズランド・ノーザンテリトリー航空サービス株式会社 (QANTAS) は、1920年11月16日に会社として登記されました。創業時の会長ファーガス・マクマスターは、この会社は「ANZAC(オーストラリア・ニュージーランド合同の軍事組織)の精神にインスパイアされた」と綴っています。カンタス航空は、初めての航空路線でクイーンズランド州西部の人々と密接な関係を築き、人々は株を購入したり飛行機で旅行したりして熱意を持って応えました。

創業者のビジョンは常に未来に向いており、ただの航空会社ではなく、旅の新しい形を開拓してきました。QANTASの「NT」は、ダーウィン空港(Northern Territoryにある)を主な空の玄関口として海外に飛び立つという当時のカンタスの計画を表しています。クイーンズランド州西部のロングリーチを拠点にした遊覧飛行やチャーター便から、路線網は急速に拡大しました。DH86機で3日半かけて飛行するブリスベン−シンガポール線を開設したことで、1935年に国際線に進出するというビジョンを達成しました。その後1938年から、エンパイアの飛行艇がシドニーとシンガポールを結び、完全なキャビンサービスと最新の快適な設備を導入しました。  

1918年

ガリポリの戦いに従軍した退役軍人のポール・マクギネスとハドソン・フィッシュは、第一次世界大戦中、パレスチナのオーストラリア第一航空隊で軍務中に出会う。

1919年

マクギネスとフィッシュは、「英国からオーストラリアを最初に飛行したフライトに10,000ポンドの賞金を進呈する」というレースへの参加者が利用するルートに沿って、ロングリーチとダーウィン間の陸上飛行場の調査を完了する。ロス&キース・スミスが12月にダーウィンに到着し賞金を獲得する。

1920年

11月16日、クイーンズランド州ウィントンでクイーンズランド・ノーザンテリトリー航空サービス株式会社 (QANTAS) を創立。保有機材は2機。事業の柱は遊覧飛行とチャーター便。大牧場主のファーガス・マクマスターが事業の指揮をとり、初の会長となる。

1921年

本社をロングリーチに移転。このときに建てられた格納庫は現在も残っている。カンタス航空初の航空機はシドニーで組み立てられたアブロ 504K。

1922年

11月、チャールビル発クロンカリー行きの初の定期郵便・旅客便を運航。第1号の乗客は84歳のアレクサンダー・ケネディ氏。

1924年

S.M. ブルース、オーストラリアの首相として初めて公務に航空機を利用。嵐により道が寸断されたため、ウィンストンからロングリーチまでカンタス航空機に搭乗した。

1925年

クロンカリー−マウントアイザ−カムウィールの新規路線では、内陸部の住民に新鮮なバターと氷を輸送。

1926年

カンタス航空の技師長アーサー・ベアードが、ライセンスを取得してロングリーチでDH50機を製造するプロジェクトを起ち上げる。カンタス航空は、航空機の製造から運航までを自社で行う数少ない航空会社の1つとなる。

1927年

アーサー・ベアードがロングリーチで実習生の訓練を開始。カンタス航空はブリスベンのイーグルファーム飛行場に格納庫を建設し、航空学校を開設する。クイーンズランド州初の女性パイロットとなったドロシー・ライスが訓練を受ける。

クロンカリー−ノーマントンの初の定期便を開設。市場価格で販売する鮮魚をノーマントンから輸送した。

1928年

ジョン・フリン師のオーストラリア内陸伝道会に代わり、初のフライング・ドクター・サービスに機材とパイロットを提供する契約を結ぶ。5月にクロンカリーの基地から開始し、最初の1年間で225名の患者を輸送。

1929年

チャールビル−ブリスベン路線を開設し、路線網の総距離は2,380kmに。

カンタス航空のパイロット レスター・ブレインが、タナミ砂漠で行方不明になっていた「クッカバラ」機を発見。キース・アンダーソンとボブ・ヒッチコックの2人のパイロットは、チャールズ・キングスフォード・スミスと彼の飛行機「サザンクロス号」の探索に出発した後、脱水症で死亡していた。

1930年

急成長を続けるカンタス航空は本社をブリスベンに移転。アーチャフィールドに格納庫と整備工場を設立。

カンタス航空の総飛行距離が初めて160万kmに達する。

1932年

キングスフォード・スミス、チャールズ・アルムのオーストラリアンナショナルエアウェイズ、ノーマン・ブリーリーのウエストオーストラリアンエアウェイズとの交渉で、インペリアル航空との提携によるオーストラリア航空郵便の共同運営を模索。しかし折り合いがつかず、カンタス航空がインペリアル航空に申し入れを行い、英国−オーストラリア間の新規の旅客・航空便を担うオーストラリア唯一の航空会社となる。

1934年

カンタス航空とインペリアル航空が合弁企業を設立し、新社名を「カンタス・エンパイア・エアウェイズ・リミテッド」とした。カンタス・エンパイア・エアウェイズは、エンパイアエアメールサービスのシンガポール−オーストラリア区間を運航。

1935年

カンタス航空初の国際線となるブリスベン発シンガポール行きを4発航空機DH86で運航。4月、シンガポール発の国際線の乗客第一号としてレディ・エドウィナ・マウントバッテンが搭乗。

1936年

英国−オーストラリア間の飛行艇サービス開始の計画が持ち上がると、カンタス航空のシンガポール路線は週2便に倍増。

1937年

ショートエンパイアの飛行艇「ケンタウルス」が路線調査飛行の最後にブリスベン川に着水。同機がシドニーに到着したときは、約5万人が新しい航空機を見学した。

1938年

ショートエンパイアの飛行艇2機がシドニーのローズベイに到着。

シドニー−サウサンプトンの初便がローズベイから出発。シンガポールまではカンタス航空の乗務員が乗務し、そこから英国まではインペリアル航空が運航を引き継ぐ。

カンタス航空本社をシドニーに移転。初のスチュワードを採用。

前線の航空会社

1939~1945年

多数の機材が王立オーストラリア空軍の軍用機として転用されていたにもかかわらず、カンタス航空は1939年の宣戦布告後もシンガポール路線およびオーストラリア国内線の運航を継続していました。

1941年には、カンタス航空の乗務員が19機の飛行艇カタリナを米国からオーストラリアまで輸送しました。このときの初フライトは、太平洋を東から西に横断する2回目のフライトでした。

日本軍による東南アジアの占領拡大に伴い、1942年2月にはシンガポール線の運航を中断。カンタス航空の飛行艇は軍人と民間人をオランダ領東インドからオーストラリアに移送しました。1942年はじめには、カンタス・エンパイアの飛行艇2機が日本軍機により撃墜される事件が発生しました。

1942年2月19日、日本軍による最初の空襲でカンタス航空の格納庫と飛行艇の整備施設が破壊されましたが、カンタス・エンパイアの飛行艇はかろうじて被害を免れました。

1942年5月には、カンタス航空のDH86機がニューギニアのマウントハーゲンから78名を避難させました。

1942年後半、カンタス航空はポートモレスビーからビルマの前線への緊急物資輸送を完了。

1943年6月から、カンタス航空はインド洋を渡りセイロンとパース間を結ぶオーストラリアへの唯一の定期航空便を運航しました。飛行艇カタリナは、28〜33時間をかけて5,600kmの距離をノンストップで飛行しました。乗客には「The Rare and Secret Order of the Double Sunrise」の会員証が贈られました。1945年にリベレーター機が引き継ぐと、乗客には「The Elevated Order of the Longest Hop」が配られました。カンタス航空のリベレーターは、空飛ぶカンガルーのシンボルマークが採用された初めての航空機です。

大戦後の事業拡大

1945~1958年

人々はさまざまな理由で航空機を利用します。カンタス航空はオーストラリアの人々と世界の他の地域を結びつけています。オーストラリアでは国内の移動はもとより海外への渡航にも移動距離が莫大になるため、他のどの国よりも航空会社が重要な役割を担っています。その証拠に、世界で最も便数が多い国内航空路線のいくつかは、オーストラリアの路線です。第二次世界大戦中、カンタス航空は攻撃にさらされている地域から非戦闘員を避難させ、カタリナ機とリベレーター機を使用してインド洋を横断するオーストラリア唯一の民間空路を維持しました。1944年、初めて空飛ぶカンガルーのシンボルマークがリベレーター機に塗装されました。1947年にはロンドンからシドニーまでの全区間をコンステレーション機が初めて飛行し、1958年からカンタス航空の路線は北半球と南半球の両方を経由して地球を一周しました。 

1945年

英国海外航空との提携により、カンタス航空はロンドン便を再度開設。カンタス航空がアブロ ランカストリアン機でカラチまで飛行し、そこから先は英国海外航空が運航を引き継いだ。

カンタス航空、飛行艇、DC3、DH84型機を使用してニューギニア行きおよび太平洋諸島行きの初の定期便を開設。ブリスベン−ダーウィン路線も再開される。

連邦政府、トランスオーストラリア航空の運営母体となるオーストラリア国立航空会社委員会を設立。

1946年

9月、メルボルン−シドニーを結ぶトランスオーストラリア航空の初便がラバートン王立オーストラリア空軍基地から離陸。10月にはトランスオーストラリア航空のDC4型機4機が到着し、12月までにはオーストラリア国内のすべての首都への路線を開設。

1947年

オーストラリア政府による全株式購入に伴い、カンタス航空は国営航空会社となる。

ロッキード コンステレーションが初めてオーストラリアに到着。12月には「カンガルールート」を飛行するシドニー−ロンドンの直行便を開設。

カンタス航空初のフライトホステスが入社。

カンタス航空、王立オーストラリア空軍に代わり、6名の乗客を乗せたランカストリアン機で日本への初の定期航空便を運航。

1948年

トランスオーストラリア航空、コンベア240の初号機を受領し、国内の空の旅に革命をもたらす。

1949年

カンタス航空のクイーンズランド州およびノーザンテリトリーの路線網とフライング・ドクター・サービスがトランスオーストラリア航空に移管される。カンタス航空はニューギニア国内路線を含む海外路線に集中することになる。

カンタス航空、香港路線を開設。

トランスオーストラリア航空の総搭乗者数が100万人に到達。トランスオーストラリア航空の路線網21,843kmは、国内線専門航空会社としては当時では世界最長。

1950年

カンタス航空創業時の会長ファーガス・マクマスター卿が死去。

カンタス航空、シドニー−東京の民間航空便を開設。朝鮮戦争の間、軍による日本行きのチャーター便は継続。

1952年

カンタス航空の共同創業者ポール・マクギネスが死去。

カンタス航空、コンステレーション機を使用し、「ワラビールート」を飛行する南アフリカ路線を開設。

ベイルートおよびフランクフルトに就航。

1954年

カンタス航空、「カンガルールート」にツーリストクラスを導入。

ロッキード スーパーコンステレーションの初号機がシドニーに到着。カンタス航空が英連邦太平洋航空の路線を引き継ぎ、米国路線を開設。

トランスオーストラリア航空、オーストラリア国内を運航する初のターボプロップ機となるビッカース ビスカウント機を受領。

1955年

トランスオーストラリア航空、一部路線にツーリストクラスを導入。

ショート社製の飛行艇サンドリンガムによる最後のフライトがシドニーのローズベイを出発。

1956年

トランスオーストラリア航空、オーストラリア初のヘリコプターによる商業飛行をメルボルンから運航。

スーパーコンステレーションの機内に設置した特製コンテナでアテネからダーウィンまでメルボルンオリンピックで使用する聖火を輸送。

1957年

前面ガラス張りの近代的な建物カンタスハウスをシドニーに開設し、カンタス航空の新本社とする。

アテネ行きの初便がシドニーを出発。

1958年

スーパー コンステレーション機によるカンタス航空初の世界一周定期便2便がメルボルンを出発して、それぞれ西へ東へ飛びシドニーに戻る

大戦後の事業拡大

1945~1958年

人々はさまざまな理由で航空機を利用します。カンタス航空はオーストラリアの人々と世界各国の人々を結んでいます。オーストラリアでは国内の移動でも海外への渡航でも移動距離が長距離になるため、他のどの国よりも航空会社が重要な役割を担っています。その証拠に、世界で国内航空路線の便数が最も多いのはオーストラリアです。第二次世界大戦中、カンタス航空は攻撃にさらされている地域から非戦闘員を避難させ、カタリナ機とリベレーター機を使用してインド洋を横断するオーストラリア唯一の民間空路を維持しました。1944年、初めて空飛ぶカンガルーのシンボルマークがリベレーター機に塗装されました。1947年にはロンドンからシドニーまでの全区間をコンステレーション機が初めて飛行し、1958年からカンタス航空の路線は北半球と南半球の両方を経由して地球を一周しました。 

1945年

英国海外航空との提携により、カンタス航空はロンドン便を再度開設。カンタス航空がアブロ ランカストリアン機でカラチまで飛行し、そこから先は英国海外航空が運航を引き継いだ。

カンタス航空、飛行艇、DC3、DH84型機を使用してニューギニア行きおよび太平洋諸島行きの初の定期便を開設。ブリスベン−ダーウィン路線も再開される。

連邦政府、トランスオーストラリア航空の運営母体となるオーストラリア国立航空会社委員会を設立。

1946年

9月、メルボルン−シドニーを結ぶトランスオーストラリア航空の初便がラバートン王立オーストラリア空軍基地から離陸。10月にはトランスオーストラリア航空のDC4型機4機が到着し、12月までにはオーストラリア国内のすべての首都への路線を開設。

1947年

オーストラリア政府による全株式購入に伴い、カンタス航空は国営航空会社となる。

ロッキード コンステレーションが初めてオーストラリアに到着。12月には「カンガルールート」を飛行するシドニー−ロンドンの直通便を開設。

カンタス航空初のフライトホステスが入社。

カンタス航空、王立オーストラリア空軍に代わり、6名の乗客を乗せたランカストリアン機で日本への初の定期航空便を運航。

1948年

トランスオーストラリア航空、コンベア240の初号機を受領し、国内の空の旅に革命をもたらす。

1949年

カンタス航空のクイーンズランド州およびノーザンテリトリーの路線網とフライング・ドクター・サービスがトランスオーストラリア航空に移管される。カンタス航空はニューギニア国内路線を含む海外路線に集中することになる。

カンタス航空、香港路線を開設。

トランスオーストラリア航空の総搭乗者数が100万人に到達。トランスオーストラリア航空の路線網21,843kmは、国内線専門航空会社としては当時では世界最長。

1950年

カンタス航空創業時の会長ファーガス・マクマスター卿が死去。

カンタス航空、シドニー−東京の民間航空便を開設。朝鮮戦争の間、軍による日本行きのチャーター便は継続。

1952年

カンタス航空の共同創業者ポール・マクギネスが死去。

カンタス航空、コンステレーション機を使用し、「ワラビールート」を飛行する南アフリカ路線を開設。

ベイルートおよびフランクフルトに就航。

1954年

カンタス航空、「カンガルールート」にツーリストクラスを導入。

ロッキード スーパーコンステレーションの初号機がシドニーに到着。カンタス航空が英連邦太平洋航空の路線を引き継ぎ、米国路線を開設。

トランスオーストラリア航空、オーストラリア国内を運航する初のターボプロップ機となるビッカース バイカウント機を受領。

1955年

トランスオーストラリア航空、一部路線にツーリストクラスを導入。

ショート社製の飛行艇サンドリンガムによる最後のフライトがシドニーのローズベイを出発。

1956年

トランスオーストラリア航空、オーストラリア初のヘリコプターによる商業飛行をメルボルンから運航。

スーパーコンステレーションの機内に設置した特製コンテナでアテネからダーウィンまでメルボルンオリンピックで使用する聖火を輸送。

1957年

前面ガラス張りの近代的な建物カンタスハウスをシドニーに開設し、カンタス航空の新本社とする。

アテネ行きの初便がシドニーを出発。

1958年

スーパー コンステレーション機によるカンタス航空初の世界一周定期便2便がメルボルンを出発して、それぞれ西へ東へ飛びシドニーに戻る

ジェット機時代の到来

1959~1991年

1959年、ジェット機時代の到来です。ボーイング707、そして後にでてくる747の登場により飛行時間が半分まで短縮され、ダイナミックでモダンな設計美学が取り入れられるようになります。フライトホステスは航空会社にとって極めてわかりやすく魅力的なマーケティングのシンボルとなりました。カンタス航空もその例外ではありませんでした。 

カンタス航空は優れた技術と安全性で世界的に高い評価を得ています。1979年に世界で初めて導入したビジネスクラスキャビン、現在ではすべての大型民間航空機に標準装備されているスライド式ラフトの発明など、数多くの史上初の功績を誇ります。パース−ロンドンなどの新しい長距離路線では、ボーイング787-9などの低燃費の新型機を使用し、斬新でスタイリッシュな長距離サービスを提供しています。そして私たちの新しい挑戦「プロジェクト・サンライズ」では、創業時のビジョンを100年後の現在も持ち続け、近い将来オーストラリアとより広い世界を直接結ぶことを約束します。  

1959年

トランスオーストラリア航空、ターボプロップ機のフォッカー フレンドシップ機およびロッキード エレクトラ機を受領。カンタス航空もエレクトラ機を受領。

カンタス航空、米国以外の航空会社としては初めてボーイング707ジェット機を受領。

太平洋横断路線にカンタス航空のジェット機を導入。移動時間が二分の一に。太平洋を横断する初のジェット旅客機サービスとなる。

1960年

トランスオーストラリア航空、オーストラリアの航空会社として初めて年間総搭乗者数100万人を達成。

カンタス航空、英国海外航空、エアインディアの三社間の新協定が実施に移され、インド経由の「カンガルールート」の路線を共有し、収益を分け合うこととなる。

トランスオーストラリア航空、カンタス航空のニューギニア路線を、それに続いてニューギニア国内全路線を引き継ぐ。

1961年

カンタス航空、エレクトラ機でニュージーランド線を就航。

カンタス航空、東京線および香港線にボーイング707-138ジェット機を導入。

1963年

カンタス航空最後のスーパーコンステレーション機が退役。カンタス航空のスーパーコンステレーション機の総飛行距離は約1億300kmに達する。

1964年

カンタス航空、超音速旅客機10機(英仏共同開発のコンコルド4機と米国のボーイング2707 6機)を発注。

トランスオーストラリア航空、同社初となるジェット機ボーイング727を導入。

カンタス航空、フィジー、タヒチ、アカプルコ、メキシコシティ、バハマ、バミューダ経由ロンドン行きの「フィエスタルート」を開設。

1965年

カンタス航空、ボーイング707-338Cの初号機を受領。

カンタス航空の707-338Cが民間航空機として初めて米国からオーストラリアまでのノンストップ便の運航に成功。

1966年

ハドソン・フィッシュ卿、カンタス航空に46年間勤めた後、カンタス航空会長職を退任。

カンタス航空、軍向けにベトナム行きチャーター便を開始。

1967年

カンタス・エンパイア・エアウェイズ、社名をカンタス航空 (Qantas Airways Ltd) に変更。

カンタス航空、同社史上最高額となる1億2300万ドルをかけてボーイング747-238Bジェット旅客機4機を一度に発注。

1968年

カンタス航空、同社初のコンピューター化されたフライト予約システム「QANTAM I」の利用を開始。

1969年

人類初の月面着陸から帰還する際にアポロ11号が大気圏に再突入する様子を目撃できる特別な旅客便をカンタス航空が運航。

カンタス航空、バリ島に週1便で就航。

1970年

カンタス航空、創業50周年を迎える。

カンタス航空のHS.125ジェット旅客機の教官が英国とオーストラリア間のエアレースで優勝。

1971年

カンタス航空ボーイング747-238B1号機の運航開始。同時に、画期的な低額運賃を導入。

1973年

外交関係を確立するため、オーストラリアのゴフ・ホイットラム首相がカンタス航空のボーイング707で中国を訪問。

1974年

カンタス航空の共同創業者ハドソン・フィッシュ卿が死去。

サイクロントレーシーの発生を受けて、カンタス航空のボーイング747が乗客674名と乗務員23名という記録的な人数をダーウィンから救出。

1975年

トランスオーストラリア航空、オーストラリアの国内航空会社として初めて1年間で400万人以上を輸送する。

1979年

カンタス航空、世界で初めてビジネスクラスを導入。

カンタス航空の最後のボーイング707が退役。カンタス航空は、機材構成がすべてボーイング747という世界で唯一の航空会社になる。

1980年

トランスオーストラリア航空、カンタス航空に代わりホバート−クライストチャーチ線を開設。

1981年

トランスオーストラリア航空、エアバスA300-B4の初号機の受領に伴い、オーストラリア国内線にワイドボディー機を導入。

カンタス航空、ボーイング747SPを導入

1984年

カンタス航空と中国民用航空局が中国とオーストラリア間の定期航空輸送を開始。

赤と白を基調にしたカンタス航空の新機体デザインとコーポレートアイデンティティを導入。

1985年

カンタス航空、国際線就航50周年を迎える。

トランスオーストラリア航空、エアクイーンズランドを買収。

カンタス航空ボーイング767初号機の運航開始。

1986年

トランスオーストラリア航空がオーストラリア航空に社名変更。ボーイング737-376の初号機を受領。

オーストラリア航空の関連会社、オーストラリアンリージョナル航空がデ・ハビランド ツインオッター機を使用してクイーンズランド州での運航を開始。

1987年

カンタス航空、イヴ・サンローランがデザインを手がけた新しいスタッフユニフォームを導入。

カンタス航空、同社初となるフリークエントフライヤープログラムを提供開始。

1989年

カンタス航空のボーイング747-438がロンドンからシドニーまでをわずか20時間あまりで飛行し、民間航空機としてノンストップ便の世界記録を樹立。

1990年

オーストラリア航空、クイーンズランド州およびミルデューラのサンステート航空を買収。ミルデューラの路線は後にサザンオーストラリアエアラインに改称される。

1991年

連邦政府、オーストラリア航空の全株式とカンタス航空の株式の49%を売却する決定を発表。

オーストラリア航空がイースタン航空を買収し、オーストラリアンエアリンクがBAe 146ジェット機でブリスベン発の路線に就航。

民営化の時代

1992~2019年

カンタス航空の保有機材は、平時、戦時中、国家の緊急事態に際して、国家戦略上必要な空輸サービスを提供しています。サイクロン - トレーシーの発生に伴ってダーウィンの住民を避難させたり、2002年にバリ島で起きた爆弾テロ事件に巻き込まれた死傷者を母国へと運んだりと、国家的な危機管理にも活用されています。さらに、カンタス航空はオーストラリアを代表する航空会社として、戦後に多数の新移民をオーストラリアに運んでいます。

1992年

ポール・キーティング首相がオーストラリア航空とカンタス航空の合併につながる改革を発表。

カンタス航空のオーストラリア航空に対する4億ドルの入札と、統合後のカンタスグループの完全民営化を連邦内閣が発表。

カンタス航空、オーストラリア航空の買収を完了。

ブリティッシュ・エアウェイズがカンタス航空の株式の25%を6億5,500万ドルで落札したこと連邦政府が発表。

1993年

カンタス理事会、カンタス航空とオーストラリア航空が「Qantas The Australian Airline」の名で統合されることを発表。新会社のトップにはジェームス・ストロングが就任。

サンステート航空とオーストラリアンリージョナル航空がクイーンズランド州での経営を統合。社名はサンステートを維持。

1994年

カンタス航空、「I Still Call Australia Home」広告キャンペーンを展開。

ジョージ・グロスとハリー・ワットがデザインを手がけた新しいスタッフユニフォームを導入。

1995年

カンタス航空の株式公開が開始される。カンタス航空、7月31日にオーストラリア証券取引所に初上場。

1998年

カンタス航空、世界的な航空会社マーケティングアライアンスoneworldの設立メンバーの1社となる。

1999年

カンタス航空、メルボルン−ロサンゼルス間のノンストップ便を運航する初の航空会社となる。

26年ぶりにニューヨーク線を再開。

オーストラリア国防軍のために任務を遂行するカンタスディフェンスサービシズが設立される。

2000年

チベット上空を通過する「シルクルードルート」をカンタス航空として初めて飛行。将来航空航法システム(FANS:Future Air Navigation System)の技術を世界で初めて導入し、従来のレーダーの到達範囲外のエリアでも航空機を運航可能に。

2001年

カンタス航空の4つの地域航空会社が新ブランド名「カンタスリンク」の下で運航開始。

カンタス航空、インパルス航空を買収しカンタスリンクに統合。

カンタス航空、観光旅行者をターゲットにした新しい国際航空会社、オーストラリア航空の設立を発表。

カンタス航空、長距離路線向けにエアバスA380航空機12機を発注すると発表。

2002年

カンタス航空、ボーイング747-400ERの初の旅客機を受領。

オーストラリア航空、観光路線を運航する低価格航空会社としてケアンズ−名古屋・大阪に就航。

カンタス航空、エアバスA330-200の初号機を受領。

2003年

カンタス航空、接客スタッフが着用するユニフォームのデザインを刷新。デザインを手がけたのはオーストラリアを代表するデザイナーのピーター・モリッシー。

カンタス航空、時差ぼけを抑制するために客室にムード照明を導入する初の航空会社となる。

2004年

ジェットスター、オーストラリアの14都市に就航。

ジェットスター・アジア、シンガポールを拠点にアジアの6都市に就航。新会社の44.5%をカンタス航空が所有。

2005年

ジェットスター、12月にオーストラリア・ニュージーランド間の路線を開設し、オーストラリア発の国際線に就航することを発表。

カンタス航空、フライトの運航を管理する新総合オペレーションセンターをシドニーに開設。

2006年

カンタスリンク、ボンバルディアQ400の初号機を受領。

ジェットスター、メルボルン発バンコク路線を1日1便で開設し、長距離国際線に進出。

カンタス航空、ボーイング737-800で、衛星を利用したグローバルランディングシステムを使用して着陸した最初の航空会社になる。

2007年

カンタス航空、ベトナムのパシフィック航空の株式の30%を段階的に取得する契約に合意。

カンタス航空、マーク・ニューソンがデザインを手がける各種プロダクト、空港ラウンジ、エアバスA380を含む航空機の内装を発表。

2008年

ジェットスター・パシフィック航空(旧称パシフィック航空)がベトナムで運航開始。

カンタス航空、A380の初号機を受領。

2010年

カンタス航空、国内線に次世代の自動チェックイン機を導入。

カンタス航空、創業90周年を迎える。

QF32便、シンガポール付近にて飛行中に緊急事態が発生するも無事着陸に成功。

2011年

カンタスディフェンスサービシズ、エアバス A330マルチロール空中給油・輸送機の最初の4機を王立オーストラリア空軍に引き渡し。

争議行動によりカンタス航空便は一時的に欠航。

2012年

ジェットスター・ジャパン、東京、大阪、札幌、福岡、沖縄への国内線を運航開始。

カンタス航空、カンタスグループ内の事業部門を再編し、4つの事業部門(カンタスインターナショナル、カンタスドメスティック、ジェットスター、フリークエントフライヤー)の設立を発表。

カンタス航空、エミレーツ航空との戦略的提携を発表。ヨーロッパとオセアニアを結ぶ「カンガルールート」において、ドバイ経由という選択肢が加わる。

2013年

カンタス航空、ドバイ経由ロンドン行き路線を開設。

ジェットスターグループ、2004年の運航開始以来、総搭乗者数1億名を達成。

中国南方航空との新たな提携を発表。

14,000名のカンタス航空スタッフのユニフォームを刷新。デザインを手がけたのはマーティン・グラント。

ジェットスター、ボーイング787-8を導入。

2015年

カンタス航空、税引き前実質利益15億3,200万豪ドルを計上。これはコスト削減と効率向上を目指し大規模な事業再編に取り組んだ結果である。

ボーイング747-400に代わる長距離路線用機材として、ボーイング787-9の購入を発表。

2016年

カンガルーのロゴを現代的にアレンジした新しい機体デザインを導入。デザインを手がけたのはデザイナーのマーク・ニューソンとデザイン会社のヒューストングループ。

カンタス航空国内線に機内Wi-Fiサービスを導入。

2017年

ボーイング787-9ドリームライナーの初号機を受領。初便はメルボルン−ロサンゼルスを飛行。

2018年

ボーイング787-9によるパース−ロンドンのノンストップ便の運航を開始。オーストラリアとヨーロッパを結ぶ史上初の直行便となる。

カンタス航空、A380によるシンガポール経由ロンドン行きを再開。

2019年

ボーイング787を使用する新規路線、サンフランシスコ行きおよびシカゴ行きを2020年初頭に開設することを発表。 

カンタス航空100周年

カンタス航空は"Spirit od Australia"として、小さな会社から国際的な航空会社になるまでの100年を、皆様と一緒に祝いたいと思います。未来に向けてさらに大きな夢を抱き、より明るい未来を目指す私たちの100周年に、ぜひご参加ください。

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