会社沿革

カンタス航空の歴史は、オーストラリアの民間航空の発展ととても深く関わっています。オープンコックピットで定員1~2名の小さな初代複葉機から始まったその事業はその後、技術を結集させたA380型機で約450人を乗せて一日に地球を半周するまでに発展しました。

これは単なる航空機の発展ではなく、まさに人々の努力の物語でもあります。Queensland and Northern Territory Aerial Services Ltd (QANTAS) 設立の裏には、強い意志を持って困難を乗り越えてきた人々がいました。献身的なスタッフと大切なお客様に支えられ、カンタス航空は平和な時代はもとより、戦時中さえも生き残り、国家に貢献しつつ企業としての地位を築いてきました。カンタス航空の歴史は、スタッフやお客様、優秀なビジネスパートナー、主要なサプライヤーなど、感動と結果を生み出してきた人々なしには語れません。

今後も、カンタス航空は、安全運航を継続しつつ、より上質なサービスをご提供できるよう努めてまいります。

誕生のきっかけ

Hudson Fysh
Paul McGinness

カンタス航空誕生のきっかけは1919年まで遡ります。

1919年3月、オーストラリア航空隊の元中尉W Hudson FyshとPaul McGinnessは、「英国からオーストラリアを30日以内に飛行する最初のオーストラリア人に連邦政府が1万ポンド(2万ドル)の賞金を進呈する」という話を耳にしました。McGinnessは、億万長者の事業家であるSamuel McCaughey卿にこのレースに参加するための費用の援助を求め、資金提供の合意を得ました。ところが、レース用の機体を探している最中に、Samuel卿が亡くなり、このプロジェクトへの資金提供が不可能になってしまいます。

しかし、後に、この挫折がオーストラリアの航空産業にとっての幸運となります。なぜなら、もしレースに参加していたなら、2人の元中尉は自分たちの航空会社を起ち上げようなどと考えもしなかったでしょうし、クイーンズランド西部の煤けた奥地からカンタスが誕生し、大手国際航空会社に成長することもなかったからです。

その後、FyshとMcGinnessの2人は、クイーンズランドのロングリーチからノーザンテリトリーのキャサリンにいたる航空レースのコースを計測し、その途中に競技参加者のための備えを用意するという業務を国防省から依頼されます。二人はこれまで自動車が通ったこともない地域を通り抜けて、51日間かけて2,179 kmを走破し、キャサリン川に到着しました。この旅で大変な困難を味わった二人は、航空サービスこそが奥地の居住地を結ぶ鍵になると確信したのです。

創立

AVRO504K
AVRO504K 2 November 1922

FyshとMcGinessはブリスベンのクイーンズランド奥地で牧畜を営む富豪Fergus McMasterに遊覧飛行とエアタクシーのサービスを提供する会社を設立する計画を持ち掛けました。McMasterは仕事関連での知人たちに航空サービスへの投資を促し、また飛行機技師には元航空軍曹Arthur Bairdを迎え、FyshとMcGinnessはAvro型飛行機2機を発注するに至ります。(後に1機はキャンセル)1920年8月19日には、The Western Queensland Auto Aero Service Limitedの名前で購入することがが契約されました。その後、会社名はQueensland and Northern Territory Aerial Services Limited となり、間もなく頭文字をとったQANTASが誕生しました。Qantasとしての会社設立は、1920年11月16日にブリスベンのグレシャムホテルにて調印されました。

当初カンタスは、Fergus McMasterを会長としてウィントンを拠点としました。1921年2月10日に、ウィントンでの最初で最後の役員会議が行われ、その後、運航の中心となる160キロ南東のロングリーチに拠点を移しました。1929年にブリスベンへ移転するまでの間は、ロングリーチで牧畜用の建物を本社として使用していました。

1921年1月には機体登録番号G-AUBGのAvro 504kを受領しました。屋根も窓もないオープンエアーの操縦席の後ろに2人の乗客が乗れるAvro機を使って、後に受領するBE2E機とともに、遊覧飛行、エアタクシーのサービスを提供しました。 Qantasの最初の定期運航便の乗客で、航空券番号1番を手にしたのは、当時84歳のアウトバックパイオニアのAlex Kennedyでした。搭乗区間は、1922年11月2日、チャールビルからクロンカリーへ郵便を運ぶ最初のフライトのロングリーチ=ウィントン=マッキンレー=クロンカリーの区間でした。

ロングリーチにはQantas Founders Outback Museumがあります。

フライング・ドクター・サービス

Flying Doctor

1918年10月号「ザ・インランダー」にオーストラリア航空隊J Clifford Peel中尉の手紙が掲載されました。その手紙は、内陸部の病人やけが人を輸送するオーストラリア内陸伝道会の航空輸送サービスを提案する内容でした。
その後、Peelは戦死してしまいますが、John Flynn牧師がこの若者の遺志を継いで、後に「フライング・ドクター・サービス」と呼ばれるようになる輸送サービスを起ち上げ、奥地の「安全ネット」構築に生涯を捧げました。

オーストラリア航空医療サービスは1928年3月27日に設立され、最初の拠点はクロンカリーに設置されました。カンタスは、要請があったときに医療目的の飛行サービスを提供する内容の1年間契約を締結しました。料金は、4人乗りのDH50Aが機材、乗務員込みで、1マイル(1.6 km)2シリング(40セント)でした。

Arthur Affleckが最初の医療飛行専門のパイロットになり、シドニーの外科医、K Vincent Welchが最初の医師を務め、フライング・ドクターは1928年5月17日に初めてクロンカリーを出発しました。

海外進出

DH86 Aircraft

1935年2月26日、カンタスの優雅な4発航空機DH86型機が、英国郵政公社航空機の頭文字であるRMAを機体に記して、ダーウィン・シンガポール路線に就航しました。また同年4月17日には、4日間でブリスベンとシンガポールを結ぶ、カンタス初の国際線運航を開始しました。この国際線の最初の旅客はA Phillips少佐でした。

DH86双発機は1935年から1938年にかけて国内線とシンガポール線で完全無事故の記録を残しますが、増大する需要に応えるには小さすぎたため、カンタスは、Cクラスと呼ばれた飛行艇ショート・エンパイアの導入に踏み切ります。

カンタスはシドニーのローズ湾に拠点を設置しました。当時は同じ航空機をオーストラリア・英国ルートで運航し、シンガポールでカンタスの乗務員とインペリアル航空の乗務員が交代していました。

1937年のクリスマスイブにインペリアル航空の「ケンタウルス」がシドニーに着陸した際、シドニーの人びとは飛行艇の壮麗な姿を初めて目にしました。この飛行艇が、英国とオーストラリアを週3便で結び、定期便の先駆けになりました。

大戦後の事業拡大

Super Constellation

1947年、オーストラリア政府がカンタスの株式を取得して、創設者のFyshを会長とするオーストラリアの海外路線を担う航空会社となりました。この年の10月、カンタスは、コンステレーションL749の初号機を迎え、12月1日には、カンガルールートでのロンドンへの初の定期路線を就航しました。当時のロンドンまでの所要日数は4日でした。
1949年には、香港・日本路線へダグラスDC4スカイマスター機が導入されました。

1956年にはカンタスは34機のプロペラ機を所有するまでに成長しました。メルボルンで開催された第16回オリンピック大会では、聖火をアテネからダーウィンまで運びました。これは聖火が初めて南半球へ訪れる出来事であり、また、当時の聖火の移動としては最長距離(13,800km)の記録となりました。

1958年1月14日には、2機のスーパーコンステレーション機がメルボルンから同時に世界一周へと出発しました。1機は西回りでインド経由のカンガルールート、もう1機は東周りで米国経由のサザンクロスルートをとり、6日間で地球を一回りしてシドニーに戻ってきました。やがて、週8便の世界一周フライトが運航を開始し、カンタスのフライング・カンガルーは23カ国の空港へ就航しました。

ジェット機時代の到来

Boeing 707

1959年7月から9月にかけて、カンタスは米国を除く世界のどの航空会社よりも早く7機のジェット旅客機ボーイング707-138を導入します。そして7月にはこの7機を米国線に就航させました。その2ヶ月後には、ニューヨーク経由でロンドンまでこの路線を延長し、10月には、インド経由のシドニー・ロンドン線の運航を開始しました。

また、カンタスは既存の707-138型機にターボファンを取り付けて改良し、
初めの138Bシリーズ型機を、ファンを意味するラテン語vannusの頭文字を取って、新型機をボーイングVジェットと呼び、1963年にさらに2機発注するなど、機材の拡充に努めました。

1961年には、Pratt and Whitney 社が開発した画期的なターボファンエンジンを搭載した新707「B」型機を4機調達しました。新707型機は、燃費に優れ、離陸距離も短く、より大量の乗員や荷物を長距離輸送でき、巡航速度も960 km/hと高速でした。オーストラリアは地理的に孤立しているため、長い航続距離はカンタスにとって常に非常に重要な課題だったのです。

ジャンボジェット機

Boeing 747
747-400 VHOJA

1966年、カンタスは所有機体をより大型のボーイング338Cシリーズ型機で統一することに決めます。また同年12月には、本社の隣に客室数450室の高級ホテル、ウエントワース・ホテルを開業しました。

カンタスは1960年代末には、後にジャンボジェットの名で知られる大型のボーイング747型機導入を検討し始めます。そして、初期の747型機を導入する代わりに、既存の707型機21機をそのまま使用し続けて、より優秀なBシリーズの登場を待つことにしました。こうして1967年8月に初めて、ボーイング747B型機を4機発注します。そのためワイドボディ・ジェット機の導入で他の航空会社に2年近く遅れを取ることになりましたが、長距離運航に適した装備のBシリーズを導入できました。

当時は空の旅が新時代を迎えており、カンタスも1967年8月1日に「カンタス航空(Qantas Airways Limited)」へと社名を変更しました。

1974年、カンタスは、サイクロン「トレーシー」の壊滅的被害を受けたダーウィンから747型機1機で673人もの人々を避難させ、1機で最も多くの人を輸送した世界記録を樹立しました。この時、カンタスは合計4,925名を航空機で避難させました。

1985年、カンタスはボーイング767-238ER(Extended Range)型機をニュージーランド、アジア、太平洋諸島への路線に導入しました。1987年にはボーイング767-338ER型機と747-438型機を発注して大規模な保有機材の近代化を開始しました。747-400型機は2メートル長のウィングレットを装備して、航空力学と飛行距離を飛躍的に向上させました。カンタスは、かつて本社があったクイーンズランド州ロングリーチより、747-400型機を「ロングリーチ」と命名しました。1989年8月17日には、カンタスの747-400初号機であるVH-OJA"City of Canberra"は、ロンドンからシドニーへの18,001kmに及ぶノンストップ便を20時間9分5秒で運航して、商業用航空機の世界最長飛行距離の記録を樹立しました。同路線を開設した1935年には、3つの航空会社の5種類の機材を乗り継ぎ、合計42回の給油を行い、一部は鉄道を利用して14日間を要していました。

国際線ネットワーク拡大と国内線

オーストラリア航空

カンタスは成長を続ける日本を含むアジア各地での需要拡大を見据えて、1990年代までにネットワークの拡充を図りました。

1990年10月には、子会社であるオーストラリア・アジア航空が台北線を就航します。また機材は、ボーイング747-400型機と767-300型機の導入を進めました。

オーストラリア政府の航空に関する方針変更により、1992年、カンタスがオーストラリアン航空とその関連会社を4億豪ドルで買収することを承認し、カンタスグループが完全に民営化されることが発表されました。

2つの航空会社の合併により、カンタスはオーストラリアで最大の航空会社となりました。また、この合併は、機材の効率化、輸送能力の向上、国際線と国内線の乗り継ぎの利便性など多くのスケールメリットをもたらしました。

カンタスは発展、成長しつづけ、2002年にカンタスは新しい国際線航空会社として、オーストラリア航空を設立します。
2003年10月には、ローコスト国内線航空会社として、ジェットスターを設立すると発表しました。ジェットスターは2004年5月に国内線運航を開始しています。

その後二つのブランド、カンタス・ジェットスター戦略を発表し、オーストラリア航空の運航を2006年に停止しています。

カンガルーシンボル

カンタスのカンガルーシンボルは、オーストラリアの1ペニー硬貨のデザインを機体に取り入れたのが始まりです。

1944年、インド洋経由英国行きの航路を「カンガルールート」と名づけたのに伴い、リベレーター機G-AGKTのコックピット下に、初めてカンガルーのシンボルマークが塗装されました。以降、このシンボルは全ての機材に塗装されるようになります。

その後、シンボルマークは羽根つきカンガルー(フライング・カンガルー)に進化しました。このマークはシドニーのデザイナーGert Sellheimによってデザインされ、1947年、カンタスのロッキードL749コンステレーション機とともに、導入されました。この機材は1947年から英国路線に導入され、カンタスの乗務員がシドニーからロンドンまで途中で交代することなく搭乗した最初のカンタスの航空機となりました。フライング・カンガルーは後に、丸枠の中に描かれるようになりました。

1984年、カンタスはシドニーのデザイナーTony Lunnによりデザインされた新しいロゴを発表します。フライング・カンガルーの羽根を無くし、カンガルーはスマートで、よりスタイリッシュなデザインとなりました。

2007年、カンタスは、ロゴマークを一新します。進化する次世代の航空機を反映しながらも、成長を続ける現代のカンタスのブランドイメージを表現するもので、以前のロゴより、一層流線的なカンガルーのデザインとなっています。

新ロゴはまさに世界に向けたカンタスのアイデンティティを表現したものです。

カンタスブランドの変遷

歴史関連リンク(英文サイト)

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